同志社大学政法会 updated 2018-04-03

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吉田善之(昭和31卒業)さんからのご投稿

考証 (八重の会津魂)  昭和31年卒 吉田善之

会津藩は幕藩体制を維持する御三家とともに、最右翼の親藩でありました。 藩祖松平正之は、藩主の守るべき家訓の第一条に{大君の儀、一心大切に忠勤に存ずべく、列国の例を持って自ら処するべからず、もし二心を懐かば、則ちわが子孫に非ず、面々決して従うべからず。}と書きつづっています。幕府に対するロイヤリテーは他藩に比べて明らかにモチベイションが高い藩であったことは歪めません。また会津若松出身の山鹿素行が提唱した士道論は藩士は勿論多くの武士道思想家に影響を与えました。


その会津藩の山本家は代々兵学を持って仕える家柄でありました。祖父の左兵衛は高島流の西洋砲術をもたらし人物、父の権八も銃砲術指南役でありました。そして八重の人生に深くかかわる事になった兄覚馬は軍事取調役兼大砲頭取、江戸では佐久間象山や勝海舟に師事した開明派のエリートでした。


八重はそのような環境に育ちました。元々勝気で男勝りの八重ではありましたので家庭での兄覚馬、弟の三郎 父権八との会話は、内容も男子が学ぶ儒学をベースにした相当高いレベルでのやりとりがあったに違いありません。会津武士としての生き方、いさぎよさ、さわやかさ 、は主従関係にとどまらず他の人々にも、かくあるべきとの会話があったのではないでしょうか。


武士は、決していいわけをしない。武士が言うべからざる言葉として、命への未練を語る言葉、金銭利害のこと、男女の色情のこと、あるいは衣食住への欲望、遊興安楽の願い事、このような{むざと口}は絶対に、はいてはいけない。

武士は寡黙であること、と父権八は教えたはずであります。
そして寡黙の武士の一言は、いかなる障害をも突き破りぬく断固たる強さを持つ事も。


八重の耳学問は五臓六腑に沈殿物のように入りこみ人格形成に大きな影響をあたえたことでしょう。そのことはその後の八重の生き様が明らかにしている。


戦死した弟三郎の軍装を着て断髪し夫尚之助ともに死闘を演じた戊辰戦争は、官軍の圧倒的武力の前に屈しました。


累々と横たわる同胞の死骸 足でまといになると死をもって未練を断った女、子供たち、その中には父権八の遺骸もあったに違いありません。


八重は断腸の思いで母佐久、姪の峰とともに会津を落ちていきました。


異国(米沢)の生活はひと様の軒をかりて、赤貧洗うがごとき日々を強いられました。 その中で八重は会津の不屈不撓の精神で家族をささえて生き延びました。


臥薪嘗胆一年数ヶ月、兄覚馬が京都で活躍している事がわかり、その一報は八重に明るい希望をもたらしたと思います。そして新天地を求めて母佐久、姪峰とともに兄覚馬の家に入居しました。


兄覚馬は、鳥羽伏見の戦いのとき薩摩に捉えられ幽閉されていましたが、管見 という建白書を薩摩に提出しそれが評価され行政にかかわれるよにになりました。しかし逆賊の汚名は背負って生きていかねばならなかったのです。

保守的な神仏の総本山である京都では風当たりは厳しかったと思います。


そこにアメリカ帰りの新島 襄が現れました。新島は大阪を拠点とする布教活動に取り組んでいましたが旨く行きません。覚馬は西洋でのキリスト教の社会の存在価値をよく知っていましたので新島の学校設立の希望と布教をぜひ京都にと勧誘しました。新島も京都の有力者の覚馬の後ろ盾があれば旨く行くかもという希望がありました。覚馬は首都移転で寂しくなった京都の再生と新宗教の振興をかけて、新島は宗教の総本山京都に殴りこみをかけて、同志社設立に動いたのでした。


兄覚馬は次の時代を見すえて八重には、英語、キリスト教を勉強するようにアドバイスしました。前夫の川崎尚之助の時もそうでしたが、親代わりの兄に対してはいつも素直である八重でしたのでなんのためらいもなくキリスト教に入門しました。


こうして運命の出会いは条件が揃いました。


八重の立ち振る舞いのさわやかさ。泥から這い上がった信念の強さ、従来の日本女性とは異なる八重のキャラクターは、襄の心を揺さぶりました。


また八重は襄の心の温かさ(キリスト文化)欧米文化を吸収してきた襄の考え、(妻の地位の高さ、レデーファスト等)は目から鱗であったと思います。


八重の洗礼から結婚までトントン拍子であったことは、それまでの神仏中心の古い因習から脱皮するのが、いかに早かったかを物語っているように思います。。今や襄さまで胸いっぱいの八重でした。


次の手紙は襄がアメリカに滞在した時に八重に宛てたものです。一読された方も多いと思いますが今一度熟読玩味して下さい。


{この身を主基督に捧げ、且我愛する日本に捧げたる襄の妻となられし御身ならば、何卒、夫之志と其望をも洞察し、少々の事ニ力を落さず、少々の事を気にかけず、何事も静かに勘弁し、又何事も広き愛の心を以って為し、如何に人に厭はるるも、人に胆はるるも、またそしらるるも、常に心ゆたかにも持ち、祈りを常に為し、己を愛する者の為に祈るのみならず、己の敵の為にも熱心に祈り、又その人々の心の0る迄も、其の為にお尽くしあらば、神は必ずお前様之御身も魂迄も、御守り被下べし }とあります。


なんと!なんと!八重の心をわしずかみしたことか、しかも地球の反対側から。


八重はこの手紙を懐に抱き、襄を懸命に支えて行こうと、決心を新たにしたことでしょう。


八重は虚弱体質の襄を一生懸命支えました。同志社を愛し、自分の子供のよに愛した生徒から鵺と呼ばわれようが言い訳もせず、自宅の礼拝堂に女子学生を集めて教育をしています。(同志社女子大)


また同志社のトップレデーとして襄とともに京都の有力者に、又あまねく全国民に、キリスト教の理解を得るため渾身の努力をしました。この頃の八重の心境は戊辰戦争の恩讐を越えてキリストの愛を説く宣教師夫人でありました。

そして十四年の歳月が流れ、襄との別れの時がやってきました。旅先で倒れた襄は大磯で静養していましたが快復することが出来ず、八重は電報で臨終に立ち会うことになりました。襄は八重に貴女が来てくれるのが待ちどうしかったと言っています。


同志社の事、教会の事 襄の家族の事、色々な思いも八重は受止めながら襄を見送りました。(グドバイまた会わん)が最後のことばでした。


襄という大きな支柱を失った八重は少しづつ同志社に距離をおいていったと思います。それは八重が徳目として身につけた、物、あるいは権力に執着しないいさぎよさ、のためか、夫を亡くした、むなしさか、八重の心を推し測るむべもありません。


同志社の成長を少し、はなれたところから見守りながら、社会奉仕に比重をおいていったのは、襄の教えたキリスト教の影響があったのでしょう。襄が亡くなった翌年に日本赤十字社に入り日清日露の戦争では京都看護学校の生徒を引き連れて篤志看護婦として傷病兵の看護にあたったのも、会津若松城落城の経験から、いても立ってもいられない気持ちだったと思います。


襄や覚馬には無い大変な栄誉を八重は受けました。大正十三年十二月貞明皇后陛下が同志社女学校行啓の折、八重だけが単独での拝謁を許され、親しく有り難き御ことばを賜ったことでした。それは逆賊として汚名を着せられ社会から排斥された会津藩の汚名挽回の唯一の旗印でもありました。八重は号泣したとあります。襄が亡くなって四十数年、八重は会津の魂とともにキリスト教徒として充実した日々を送ったと思います。




最後に東北の大災害にあわれた同志社の諸兄へ


私も、東北の復興を乞い願う同志社人であります。是非是非、八重のように不屈不撓の精神で、復興に御尽力あらん事を切にお祈り申し上げます。
どうか貴方と愛されるご家族のために神のお加護のあらんことを。


参考書  新島八重と夫、襄  本井康博 早川広中 共著
      日本の元気印新島八重  本井康博 著
      女たちの明治維新  鈴木由紀子 著
      武士道         相良亨 著