同志社大学政法会 updated 2018-09-20

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第3回ひとことコラム

田中 康稔(昭和32年法律学科卒)

私と同志社

戦後まもない昭和28年(1953)、全国の大学に先駆けて1月に入試をする同志社にはテストマッチをかねて多くの受験生が押しかける。結構難関だといわれていたが、無事合格してそのまま居座った。以来72歳の今日まで半世紀を越えて、同志社という活字を目にしたり同志社という声を聞くと敏感に反応を続けている。
入学式は中学北のグラウンドにテントを張って執り行われた。煉瓦造りの建物以外は木造のおんぼろ校舎が多く、学生が集まるとギシギシ、メリメリと悲鳴をあげていた。鉄筋コンクリートの建物は明徳館だけであった。在学中の4年間は、ヒステリックに叫ぶ左翼的な学生運動家や絶えることがない校舎建築の騒音に明け暮れたように記憶している。少年通信兵として潜水艦に乗り組んでいたという年上の学友もいて、敗戦の姿が漂うキャンパスでもあった。マイクを通じてしか教授の声を聞くことがないマスプロ授業だったが、いつも大教室は学生でいっぱいであった。

英語と第二外国語とゼミが教授と生で接する機会であった。ドイツ語は特に少人数で、ドイツが敗けるまで現地の日本語教師であった岩倉教授は、ほとんど日本語を喋らず、ヘル・タナカ、ノッホ・アインマール、またはガンツ・ファルッシュと叱られたりガンツ・グートと褒められたりの緊張の連続であった。

刑法の滝川春雄先生の試験は「actio libera in causaについて論述せよ」の一問だけ、「なんじゃいこれは」なんて言う者は白紙提出で早々に教室を出て行った。女子学生の少ない法学部にあって、谷田貝三郎先生のゼミだけは三人も女子学生が居て他のゼミからうらやましがられた。

東京の両国高校から来た松本君や地元の鴨沂高校の谷口君、神戸高校の藤井君とは、現在も文通している。谷口君が銀行を退職して関連会社の代表としてある催しで挨拶しているところに某社の役員の藤井君も居て久しぶりの再会を祝して帝国ホテルで乾杯したとか。藤井君の会社に両国高校出身者が居た関係で、当時NHK博物館長をしていた松本君が聞き込んで藤井君の会社を尋ねて来て再会を喜び合ったなどと関東在住のゼミ仲間たちが意気軒高ぶりを発揮している話を聞いて、私は切歯扼腕するばかり。毎年末に横浜で開催される小学校関東地区同期会に来た時は是非一献傾けよう、その際には同志社OBがやっている居酒屋へ案内する、と藤井君に誘われながら未だ実現していない。

田中康稔(昭和32年法律学科卒)